丁度、恋をしているので自分なりに分析してみようと思う。
4年ぶりに恋をしている。
世の中に可愛い子はたくさんいるし、付き合おうと言えば「付き合います!」と強い意志で返事をするだろうなって人は大勢いる。
けれど、純粋にみずから付き合いたい、独り占めしたい、という感情になったのは久々。
自分の身に起こる珍しい体験・感情は、何かに残しておかなければもったいない気がする。
ということで、今このブログを書いている。
とりあえず出会いからじっくり書いていこうと思う。
納期のないブログは原稿と違ってダラダラ書けるのが本当に素晴らしい。
レナさん(仮)は、飲み屋で出会った人だ。
たまたま行ったバーで常連であるノブさん(仮)、シゲさん(仮)と仲良くなってからが始まり。
3つ上のノブさんは感情の起伏がなく、淡々と真顔でボケるような人で、40歳のシゲさんは女好きのヘベレケ親父。空気が読めない分、コミュニケーション能力はある意味高い。
そんなシゲさんが下心全開で話しかけたのがレナさん。一人飲みが好きで、焼酎と日本酒を愛するおっさんみたいな方。年齢は27歳。小柄で目はきれ長だけれど、輪郭や鼻、全体的な印象は柔らかいイメージだ。話し方も少し舌ったらずでまろやかな感じ。けれど、考えや喋る雰囲気はしっかりしている。
恋愛も含めて歳上が好きで、相当気を使う性格。シゲさんの面倒な絡みのいなし方もも上手で、空気を読みながら楽しく立ち回る術を知っていて初対面ですでに尊敬の念を抱いていた。
周りのふざけた話にもすごく笑うし、自らもふざけてボケたりする。とにかく楽しい人だけれど、おバカな感じではなく、気付く人には芯がしっかりしていて、年相応にしっかり大人だと感じる。
ノブさんはレナさんの大人な部分に気づいていたが、シゲさんはノリが良くてアホな可愛い子ってイメージしか持ってなかった。さすがだ。
1時間ほど適当に飲んで話して、俺が明日早かったので先に帰った。そのあとも1時間ほど飲んで解散したらしい。初めて出会った時の感想は楽しくて気が利く良い子だなって印象。
シゲさんはひたすら喋りたがってたのであまり会話に参加していないから向こうから見た自分の印象はこの時はまだわからなかった。
気遣う子に出会うといつも思うことだけれど、素はどんな感じだろう、ちゃんと気を遣わないで楽にできる人はいるのかな、と余計なキモい心配をして帰路についた。
とても久々の更新。とりあえず辛いなう。
webライターの仕事を始めて2年ほど。
ブログの存在をすっかり忘れて1年以上経った今の現状を話す。
とりあえず辞めてはいない。
辞めたいと思うことは何度もあった、というか今もそうだけれど続けてはいる。
続けている理由の1つはライターの仕事は今後お金になる可能性が高いからだ。
今の職場でスキルを磨いて転職した人たちがしっかりと稼いでいる。
ライターという仕事はスキルに天井がない分、収入も比例して天井がない。
今は順調にスキルが磨かれないまま、レベルの高い案件を任せられてしまっている状況にある。
これをそつなくこなせるレベルになれば、相当な収入になるモデルがはっきりとあるため、頑張って耐えるんだおれ、立つんだジョーみたいな気持ちではいる。
とにかく余裕がほしい。お金に余裕が出れば心にも余裕がある。余裕がある男はモテる。
つまりはモテたい。お金があればガタガタの歯も治せるし、ボコボコの肌も多少はマシになる。毛深い体も脱毛でツルッツル。
好きな子とも付き合える可能性が広がる。
正直、今からでは間に合わないだろうけれど、次の好きな子、と次の失敗は回避できる可能性が高まる。
何が言いたいかと言うと好きな人がいるんだ。
正直仕事が手につかないレベルで足枷やん、って関西弁が出そうにはなるけれど、欲に惑わされずスキルを磨いていきたい。
いやぁ、好きだなー。
何も楽しくない
好きなことすら楽しくない日々が続いている
音楽を聴いたり、ダンスの動画を観たり軽く踊ったり、散歩、読書。
ずっと何かにイライラして具合が悪い。
何をしても楽しくないからブログを書いてみたが今のところ苛立つばかりで楽しくない
ストレスを解消するためにやってたことがストレスになってる状態
うつなのだろうか。やるべきことがあってもなにもやりたくない
部屋の片付けをするべきなんだが本当にできない
とりあえず、外に出ようと思う
もちろん外にも出たくないのだけど、それがやりたくないすべての中で一番マシだ
音楽も人を殺す
タイトルは”リーガルリリー”というバンドのある曲の一節。
怖さを持って音楽のチカラを伝える歌詞。曲の最後には”音楽よ人を生かせ”という歌詞で終わる。
音楽というものは常識や一般的な価値観を歌うものもあれば、建前を捨てて本音を叫んだり、物事の本質を突くものもある。フラストレーションを自由に吐き出せるものでもあると思う。
影響力。音楽にはそれがある。
そしてお笑い、同じ芸術としてお笑いにも影響力という言葉使われる。
不思議に思うことがある。
お笑いはやけに規制が厳しいけれど、音楽にはなぜそれがないのだろう。
音楽もお笑いも人を殺せる。
その2つの芸術は日常とは違う居住区にあるもので、だからこそ、人は惹かれ、影響され、そのパワーは同じではないのだろうか
お笑いを見せない親がいる
うっせーと怒鳴り散らすコントをみればそういう人たちは野蛮だという
そんな親も音楽禁止という言葉は聞かない
なぜだろう。お笑いを禁止された子供がadoの曲を聞くのは問題ないのだろうか
音楽もお笑いも人を殺すし、生かす。
もしそんな刺激的なものを子供に見せたくない親がいるのならば、お笑いを見せないだけの行為はぬるすぎる。
お笑いが突出して害悪ということなのか。だとしたらそれを具体的に教えてほしい。
自殺や殺人をほのめかす歌がある。
音楽に影響されてヤンキーだらけだった過去があった世代じゃないのか。校舎の窓カラスが割れてた、割ってた、その世代の人達自身がそれを言ってたのはうそだったのか?
やけにお笑いにだけヘイトを向ける世の中が謎
音楽もお笑いも人を殺し、人を生かす。そしてそれ以外の全てもそうだ。周りの友達、ゲーム、歩いていく中でみるものすべて、影響されるものなんて無限にある。
その中でなにに影響されるか、それを見てどう捉えるかはその人自身の心ではないのか?
倫理とかいう綺麗事で救いもしないくせに正義みたいな顔した言葉がある。
倫理という名の下の規制によって、殺される人たちがいることなぜ気づかないのか。
音楽に影響されて、お笑いに影響されて、先輩のヤンキーに影響されて、そうやってナイフを人に向ける人間は、なにもそれらに影響されなくてもいつかナイフを向けてる
お笑いや音楽、芸能界という存在なんて、社会とかけ離れたものだからこそおもしろかったんじゃないのか?
昔のテレビのような日常、常識とかけ離れたものだからこそ、辛い現実の中で生きる楽しみとしてテレビに救われた人は沢山いたんじゃないのか
お笑いや映画、テレビの倫理を取り締まる行為はそういった人たちを死なせたいんだろうか
他人と比べてしまうこと
人と比べて落ち込むことは自分にとって悪い癖の一つだ。
人と比べることが必ずしも悪いことではない。
ライバル的な存在や、目指すべき目標として自分より優れていたり、負けたくない気持ちを持ちながら競り合っている関係の相手がいることは、モチベーションの維持・やる気の底上げに役立つツールの一つだと思う。
だが、自分の場合はそのツールを自らを落とし込むことに使う。
職場の同期でスキルが高く、物覚えがよく、柔軟性があって、メリハリを持って仕事に取り組む器用な人がいる。
パソコンをまともに使えずに現場仕事や製造の仕事をしてきた異業種から仕事を始めた俺はスタートラインからもちろん違う。
それを言い訳にするのは違うが、だからといって落ち込むためにわざわざ比べるのも違うとはわかっている。
ただその人が褒められるたび、同じ課題をやってできたものを見せ合うたび、プラスの意味は一つも持たない、気持ちの落ち込みを感じてしまう。
メンタルの本はいくつか読んできた。生き抜く上での術を知恵として吸収はしてる。
ただ知ってるのと使えることはまた別だ。そこにすり合わせてなんとなくマシにはできても生まれ持った思考、性格を変えるのはなかなか難しい。
メンタル系の本の中でも人は根本からは変えられないことを言ってる内容は多く、社会で生きてきた経験の中でその証拠となるものを自然と拾ってきた。
明らかに昨日の自分を更新してる感覚はある。そこを見るべきなんだ。しかも全くもって知識も技術もなにもないとこから始めている自分はそれなりに経験を積んできた周りと比べても進歩はわかりやすく、如実に変化を感じているはず。
それなのに、だめな自分だと自分がしつこいくらいに罵る。
いつだって何かを決めるのは大体が自分自身だと思う。行動や選択、自分の価値、物の見方。
特例はもちろんある。抗えない運命。自分の心通りにはどうしてもできない選択はある。
ただ自分だけじゃなく、人は誰かのせい、なにかのせいにし過ぎな生き物だと思う。
どれだけ周りの環境や生まれ持ったスペック、日々の出来事のせいにしても、最終的に
それを決めたのはあんただろ、と周囲や自分に苛立つことは少なくない。
一つだけ、自分の良いところを上げるならば、常に変わりたい、もっと人としてできた人間になりたい、挑戦したい、そんな気持ちをずっと持ち続けていることだ。
行動に移しているかどうかは別として
今までもずっとそうだったのに、落ち着いてそれを見つめてやっと気づくこと
小説は好きだけど、小説の感想は嫌いだ。
村上春樹のねじまき鳥クロニクルを読んで急に気付いた。
気づいたというとなんとなく正しい表現ではないように思うが、1番伝わりやすく言えばそんな感じだ。
本の感想を書く人の思考が自分に合わない
小説の感想の内容はみんな違っていても姿勢はみんな一緒だ。
小説の内容の意味を考え、何を伝えたいか、過程はおざなりに結果的にどういう小説だったかをその人なりの解釈を表現することを
レビュー
感想
と言ってる。
肌に合わない。小説好きな人が同じ理由で小説が好きなわけではないんだ
俺は小説を読んでる最中、そして読み終えた時のぼんやりとした感覚的な心の揺れが好きだ
暗くなったり
悲しくなったりもすれば
明るくなったり
変に陽気な気分にもなれば
何にもいいあわらせない不思議な感覚。宇宙か何か異世界に放り込まれたような気分
とにかく具体的な何かとか、読者の意図とか伝えたいことみたいなそんな物として掴もうとする、捕まえようとする心情で読むことはまずない
面白かった。良かった。気持ちの揺れだけを楽しんでる
そしてそれは小説に限らず、自分という人間はその心の揺れが趣味思考、何もかも全てそれで生きてる人間みたいだ
好きな音楽も好きなマンガもゲームも、人も心の揺れだけに凝縮、左右される人なんだ
音楽が好きだ。学生の頃からインディーズだったり、もっと言えば自主制作で作ったCDを買うくらいだった
漫画もダンスもバスケも
好きなもの沢山あるけれど、同じ趣味を持ったもの同士とうまく語り合うことができなかった
みんな、好きな理由を具体的に明確に言えたからだ。言えない。感覚的なものでしか何も見てない。思えない。言えない
ソリッドなギターがとか、あのメロディがとか歌詞がとか。そういうのでは言えない。なんで好きかって具体的に考えたことがない
ただ心が揺れたものを聴いて読んで表現しただけ。そこには掴めるものは何もない。
別にそれは感想を言えないとか明確に言えないとはちょっと違うかもしれない
言えるけれど、それは人に共感してもらえたり、理解してもらえるものと違う
このメロディが凄い心が揺れる。この場面が心に揺れる。という相手からしたら表面的なものでしか言えない。
それは霧で文字を打つみたいなもので、あるけれど掴むことはできない
でも自分にとってそれは表面的なものではなくて、むしろ一番深い部分がそれだ
心は目には見えないが、他人から見てる俺の行動や表情はもうほとんどその心でしか動いてなくて、脳よりずっと先にあるものだ
今書いてる文章も頭でなんて全く考えていなくてひたすら喋るように文字を打ってる
殆ど止まらずに、文章と呼べるようなものではないだろうし、フォーマットなんか何もないのがよくわかる読み返しても暗号にしかならないものだと思う
ただ心が書けと言ってる
書いて吐き出さないと心臓が持たない
今文字を打ってる間も心臓は窒息しそうなくらいいっぱいいっぱいで
高揚しながらも苦しそうにしてる
過剰に繊細で、言葉の表面の奥にあるなにかでしか人と会話することが出来ずに、勝手に進む空想、被害妄想(それはどうにも自分の中では妄想ではないと自信を持っているほど確信のあるものだけど)で生きているしもう生きていくしかないものみたいだ
変えれると思ってたし、変えようとしてきたけれど、もうこれはどうにもならない。受け入れたなくても受け入れないと進めないものが誰にでもあると思う
自分にとってはそれがこれだったんだ。
なんか落ち着いてきた。もうこれで生きてくしがないんだ。だりぃ
アンチとの正しい向き合い方
たまにTikTokを見る。
本当によくできたアプリだと思う
一つの動画は数十秒で興味がなかったらスライドすればいいし、興味ないボタンみたいなのがあって、それを押せば似たような系統の動画は流れなくなってくる
飽きが来ずにいつまでも見れてしまう作用がある
個人的に好きな部分は昔のテレビに近い要素があって見たいものだけを見れないところにある
興味ないボタンがあって、多少は自分の好みに絞れるし、フォローした動画だけ見れる機能もあるのだが、だいたいの人はとりあえずオススメから機械的に勧められた動画を見ることが多い
今は観たいものだけを観れる時代になった。
便利な部分もあれば、個人的にはもったいないなと思う部分でも合って、視野が広がりづらいのもそうだし、新しいもの、自分の趣味に合わないものを受け入れてみようというような姿勢、許容が狭くなってしまう気がする
アンチなどという存在がいるが、アンチになる理由の一つに上記の原因も含まれてると思う
何にせよ、自分の嫌いなものが周りに評価されてることに不愉快になるのは正直分からない話ではない
というか、自分は言わないだけで腹が立ったりする
表に出すか出さないかだけで、アンチの思考とは変わらない
ただ、それを表立って堂々と言える思考は持ち合わせてない
恥ずかしくて幼稚な行為な上に、それに気づかないで堂々と他人を批判してる救いようのない愚かさには圧倒される
基本的に人を見下すことはあまりないが、こういったアンチに対しては、シンプルに見下してる
はっきりと自分の方が人として上だと思ってる
自分の気持ちを押しつけて、他人への配慮がなく、それを恥ずかしげもなくコメントして、振り返ったり冷静に俯瞰で見れる脳みそを持ち合わせていない
そんなアンチという存在は、一つに絞れるものではないなと最近の出来事で思った
いま韓国の女の子と、日本の男の子が配信でコラボしてから恋愛に発展して、キュンキュン(表立って自分がこんなセリフを言うのは気色悪くて一生ないだろうが分かりやすくするためにあえて言ってますごめんなさい)するようなやり取りをしていて、とんでもなく人気の配信になってる
正直、その女の子たちの照れてる感じとか、純朴な感じ、韓国の女の子らしいストレートに気持ち表す若々しさが、とっくにそんなものは枯渇した自分に潤いを与えている
よく分からん言い回しだけど、面白くてハマってる
男の子たちもいい意味であほにデレデレしてニヤニヤして楽しそうでなんともうらやま面白い
そうやってたまにだが配信を見てる時に、どうしてもtiktokは若い人たちが多いから仕方ないと思いつつ、コメント欄は残念な内容なことも当たり前にあった
なぜ気づかないんだろうと不思議なほど、自分の理想、期待の押し付け、見守って楽しむ姿勢を持つことが出来ず、その立場にいないのにも関わらず指示をして、他人の感情を無視し、コントロールしてくる内容が溢れてた
ちょっと考えれば分かることなのに、ちょっとも考えられない人ばかりで溢れかえっていた
最終的には当然の結果だが、ある出来事が起こって、ある人に気を遣わせ、ある人は傷ついて、ある人は悲しんで、ある人は腹が立っていた
なにより信じられなかったのは、他人の心の機微に気づけない人ばかりだったこと
泣いたのを見て、怒ってるのを見て、やっと気付いていたこと。
もっと言えばまだ芯に言いたいことがわからずに、まだ空気の読めないコメントや真意をまるで理解できずに批判してた人がそんなに少なくなかったこと
そして、過ちに気づいた人たちの行ったことが1番引いた。ある人が腹立ちながらも感情を抑えつつ冷静に自分の思い、見る人へのメッセージを伝えた。それで自分が誰かを傷つける発言をしたと気づいた人も沢山いた
メッセージを伝えるまでのコメント欄にも、その空気の読めないコメントが溢れかえっていた。
そして、メッセージを伝えた後のコメント欄にあったのは、空気の読めないコメントに腹を立てていた人たち、空気の読めないコメントをせず配信を見てた人たち
の、コメントだけだった
今まで散々人を傷つけるコメントをした人たちが行ったのはコメントをやめる。それだけだった
謝りもしないの?打つのやめるだけで自分の行いを自分で許せるの?
謝りのコメントは自分が見た中では1人だけ
そういう感情が起こらない人たち、もしくは逃げるだけの卑怯な精神の人が気付かずに愚かに人を傷つけているんだと思った