今までもずっとそうだったのに、落ち着いてそれを見つめてやっと気づくこと
小説は好きだけど、小説の感想は嫌いだ。
村上春樹のねじまき鳥クロニクルを読んで急に気付いた。
気づいたというとなんとなく正しい表現ではないように思うが、1番伝わりやすく言えばそんな感じだ。
本の感想を書く人の思考が自分に合わない
小説の感想の内容はみんな違っていても姿勢はみんな一緒だ。
小説の内容の意味を考え、何を伝えたいか、過程はおざなりに結果的にどういう小説だったかをその人なりの解釈を表現することを
レビュー
感想
と言ってる。
肌に合わない。小説好きな人が同じ理由で小説が好きなわけではないんだ
俺は小説を読んでる最中、そして読み終えた時のぼんやりとした感覚的な心の揺れが好きだ
暗くなったり
悲しくなったりもすれば
明るくなったり
変に陽気な気分にもなれば
何にもいいあわらせない不思議な感覚。宇宙か何か異世界に放り込まれたような気分
とにかく具体的な何かとか、読者の意図とか伝えたいことみたいなそんな物として掴もうとする、捕まえようとする心情で読むことはまずない
面白かった。良かった。気持ちの揺れだけを楽しんでる
そしてそれは小説に限らず、自分という人間はその心の揺れが趣味思考、何もかも全てそれで生きてる人間みたいだ
好きな音楽も好きなマンガもゲームも、人も心の揺れだけに凝縮、左右される人なんだ
音楽が好きだ。学生の頃からインディーズだったり、もっと言えば自主制作で作ったCDを買うくらいだった
漫画もダンスもバスケも
好きなもの沢山あるけれど、同じ趣味を持ったもの同士とうまく語り合うことができなかった
みんな、好きな理由を具体的に明確に言えたからだ。言えない。感覚的なものでしか何も見てない。思えない。言えない
ソリッドなギターがとか、あのメロディがとか歌詞がとか。そういうのでは言えない。なんで好きかって具体的に考えたことがない
ただ心が揺れたものを聴いて読んで表現しただけ。そこには掴めるものは何もない。
別にそれは感想を言えないとか明確に言えないとはちょっと違うかもしれない
言えるけれど、それは人に共感してもらえたり、理解してもらえるものと違う
このメロディが凄い心が揺れる。この場面が心に揺れる。という相手からしたら表面的なものでしか言えない。
それは霧で文字を打つみたいなもので、あるけれど掴むことはできない
でも自分にとってそれは表面的なものではなくて、むしろ一番深い部分がそれだ
心は目には見えないが、他人から見てる俺の行動や表情はもうほとんどその心でしか動いてなくて、脳よりずっと先にあるものだ
今書いてる文章も頭でなんて全く考えていなくてひたすら喋るように文字を打ってる
殆ど止まらずに、文章と呼べるようなものではないだろうし、フォーマットなんか何もないのがよくわかる読み返しても暗号にしかならないものだと思う
ただ心が書けと言ってる
書いて吐き出さないと心臓が持たない
今文字を打ってる間も心臓は窒息しそうなくらいいっぱいいっぱいで
高揚しながらも苦しそうにしてる
過剰に繊細で、言葉の表面の奥にあるなにかでしか人と会話することが出来ずに、勝手に進む空想、被害妄想(それはどうにも自分の中では妄想ではないと自信を持っているほど確信のあるものだけど)で生きているしもう生きていくしかないものみたいだ
変えれると思ってたし、変えようとしてきたけれど、もうこれはどうにもならない。受け入れたなくても受け入れないと進めないものが誰にでもあると思う
自分にとってはそれがこれだったんだ。
なんか落ち着いてきた。もうこれで生きてくしがないんだ。だりぃ